
「これ、覚えておいてね」
家族にそう念を押されたのに、次の瞬間にはもう忘れている。誰にでも一度は経験があると思います。では逆に、何十年も色褪せずに残っている記憶もありますよね。初恋の相手の名前、子どもが生まれた日の病室のにおい、遠足で転んで泣いた場所——なぜ「覚えておいてね」と言われた昨日のことは消えるのに、頼まれてもいないあの日のことは、こんなにもはっきり残っているのでしょうか。
記憶は、脳の中の「一箇所」にしまわれているわけではありません。よく例えられるのは、記憶は一冊の「本」ではなく、バラバラの「ページ」だということです。ある出来事を思い出すとき、脳は色々な場所に散らばったページ——匂いを担当する部署、音を担当する部署、感情を担当する部署——を同時に呼び出して、一冊の本のようにつなぎ合わせています。だから匂いや音楽をきっかけに、忘れていたはずの記憶がふっとよみがえることがあるのです。
そしてもう一つ大事なのが、「海馬」という脳の部位の存在です。海馬は、いわば記憶の「仮受付」。新しく体験したことを一時的に預かり、大事だと判断したものだけを、少しずつ脳の奥深くの「本棚」へと運んでいきます。この「仮受付から本棚へ運ぶ」作業がうまくいかなくなるのが、アルツハイマー型認知症で最初に起こる変化だと言われています。だから、真新しい記憶ほど残りにくく、何十年も前にすでに本棚へ運び終えた記憶は、意外なほど長く残るのです。
これは、朝ごはんに何を食べたかを聞かれて答えられないのに、子どもの運動会の記憶なら鮮明に語れる、というよくある場面にも重なります。「さっきのことは忘れるのに、昔のことはやけに詳しく話す」というのは、記憶がでたらめに消えているのではなく、むしろ順番どおりに——新しいものから——静かに薄れているということなのです。
「さっき言ったのに、もう忘れている」と感じたとき、それは本人が怠けているわけでも、家族への関心が薄れたわけでもありません。仮受付から奥の本棚まで、記憶を運ぶ通り道が、少しずつ混雑してしまっているだけ。そう考えると、忘れっぽさに苛立つ気持ちが、ほんの少し和らぐ気がしませんか。
次回は、この「本棚」の中でも、なぜか色褪せない記憶——楽しかった思い出ほど長く残る理由についてお話しします。
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