
「お母さん、去年の旅行の話、また嬉しそうにしてたね」
そう感じたことはありませんか。家族旅行や孫が生まれた日のことは、認知症が進んでも驚くほど鮮明に語られることがあります。一方で、昨日の昼ごはんの内容はまったく思い出せない——前回、「新しい記憶ほど失われやすい」というお話をしましたが、実はそれだけでは説明のつかない現象があります。楽しかった記憶は、なぜあんなにも長く残るのでしょうか。
答えの鍵は、「仮受付」である海馬の、ちょっと意外な仕事ぶりにあります。海馬は、体験したことを機械的に日付順で本棚へ運んでいるわけではありません。心が大きく動いた出来事——嬉しかったこと、驚いたこと、時には怖かったことにも——には「これは特に大事」という付箋を貼って、本棚のいちばん目立つ場所に、より丁寧に運んでいくのです。
この「付箋を貼る」働きをしているのが、脳の中で感情を担当する扁桃体という部位です。扁桃体が強く反応した出来事ほど、海馬は優先的に、そして繰り返し本棚へ運ぼうとします。付箋の色が濃いほど、本棚の奥にしまわれても見つけやすい——そんなイメージです。楽しい記憶が長持ちするのは偶然ではなく、脳が「これは覚えておくべきだ」と判断した結果なのです。
これは脳科学で「情動性記憶増強」と呼ばれる現象です。扁桃体が興奮すると、ノルアドレナリンをはじめとする神経修飾物質が分泌され、すぐ隣にある海馬の働きを底上げします。神経細胞同士のつながりが強まる「長期増強」という現象が起こりやすくなり、その出来事の記憶がより強固に、より多くの手がかりとともに刻まれるのです。扁桃体と海馬は解剖学的にも隣接しており、この近さそのものが、感情と記憶が切り離せない理由の一つだと考えられています。
ここで一つ、知っておいていただきたいことがあります。この仕組みは、怖かったことや辛かった記憶にも同じように働きます。付箋は「楽しい」専用ではなく、「心が大きく動いたかどうか」に反応するのです。認知症の方が特定の出来事に強く反応したり、同じ不安を繰り返し口にしたりするのも、実はこの付箋の仕組みと関係しているのかもしれません。
それでも、これは介護の場面で大きな希望になります。同じ楽しい話を何度も聞かされてつらいときもあると思いますが、それだけ本人にとって「大切だった」証拠でもあります。そして、新しい嬉しい記憶も、まだ作ることができるということでもあります。一緒に歌う、庭の花を眺める、好きなお菓子を食べる——今日のささやかな喜びが、本棚の目立つ場所に運ばれていくかもしれません。
次回は、一度しか会っていないのに、なぜか忘れられない人がいる——その不思議についてお話しします。
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