住宅改修費の支給申請(手すり・段差解消)
20万円枠の使い方・対象工事・申請手順。
「介護保険はどこから申請する?」「どんなサービスが使える?」を認知症を専門とする医師が整理してお伝えします。
「母がまた転びそうになって…」
三田村香苗が地域包括支援センターの窓口に電話したのは、平日の昼下がりだった。72歳の母・三田村ふみさんが、脱衣所の段差につまずいて壁に手をついた。転倒こそ免れたが、ふみさんは「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら右往左往し、そもそも何のために脱衣所に来たのかしら、とひとり呟いた。
アルツハイマー型認知症の診断を受けて1年半。ふみさんの足元は日増しに不安定になっていた。
香苗は週に3回、電車で40分かけてふみさんのマンションに通っていた。夕方5時ごろ着くと、ふみさんは決まってキッチンと居間の間を何度も往復していた。「何か忘れてる気がして」とつぶやきながら。認知症のある人に多い「ループ行動」だとヘルパーに教わっていたが、見ているだけで自分まで落ち着きが無くなりそうなソワソワ感があった。そのキッチンには2センチほどの段差がある。若い頃には何でもないただの2センチが、今になって、すり足気味のふみさんの足にとっては大きな段差として立ちはだかっていた。
「手すりか段差解消をしたいんですが、確か費用を軽くする方法があるも以前に聞いたことがあるのですが……」と香苗は尋ねた。担当の相談員が言った。「おっしゃる通り介護保険の住宅改修費の支給がありますよ。上限20万円で、かかった費用の9割が戻ってきます」。
その言葉を聞いて、香苗はとっさに「じゃあすぐ業者を呼ばないと」と考えた。そこが最初の間違いだった。
改修工事は、申請前に着工してはいけない。香苗がこのルールを意識せずにいたことは、冷や汗をかく原因になった。知人から聞いたリフォーム業者に「急いでお願い」と連絡してしまった翌日、ケアマネジャーの森川さんから電話が来た。「三田村さん、まだ着工してないですよね?事前申請の準備で分からないことはありませんか」。工事はギリギリセーフで止まった。
森川さんに改めて教わりながら、香苗は手続きをやり直した。
まずどんな工事が対象なのかを整理した。
介護保険の住宅改修費として認められる工事には種類がある。手すりの取り付け(廊下・浴室・トイレ・玄関など)、段差の解消、滑りにくい床材への変更、引き戸への扉の取り替え、洋式便器への取り替えなどだ。ふみさんの場合は、脱衣所の手すりとキッチン段差の解消を優先することにした。
業者に現地調査を依頼し、見積書をもらった。手すりの取り付けが2か所で8万円、段差解消が3か所で7万円、合計15万円の見積もりだった。20万円枠に余裕がある。森川さんが「今後のことも考えて、トイレの手すりも入れておきましょうか」と提案してくれた。追加で4万円。合計19万円。20万円の枠内に収まった。
次に、市区町村の介護保険担当窓口に「事前申請」を出す。提出書類は、住宅改修が必要な理由書(ケアマネジャーが作成)、工事費見積書、改修前の写真、改修箇所を示した図面などだ。
香苗は森川さんに理由書の作成を依頼し、自分のスマートフォンで写真を
撮った。脱衣所の段差、キッチンの入り口、廊下の暗さ。何枚も撮って、森川さんに「これで足りますか」と確認した。「十分です、よく撮れてます」と返ってきたとき、少し肩の力が抜けた。
事前申請が承認されて、ようやく工事が始まった。ふみさんは職人が来た日、「うちに知らない人が来た」と落ち着かない様子だったが、森川さんのアドバイスで工事前にふみさんに「お家を少し安全にする工事です。音がしても怖くないよ」と繰り返し話しておいた。ふみさんは完全には理解していなかったかもしれないが、それでも香苗の手を握って「ありがとうね」と言ってくれた。
工事が終わったあと、今度は「事後申請」だ。改修後の写真と工事費の領収書を添えて、再度窓口に提出する。1〜2か月後、自己負担1割を除いた費用が口座に振り込まれる。ふみさんの場合は所得に応じた1割負担で、17万1000円が戻ってきた。
住宅改修費支給申請の実践ポイント
着工前の事前申請が絶対条件
工事が始まる前に、市区町村の介護保険担当窓口に申請書類を提出する必要があります。着工後では申請が認められないため、「先に業者を呼んでから書類を揃えよう」という順番は致命的なミスになります。ケアマネジャーへの相談を最初の一歩にしましょう。
対象工事の範囲を正確に把握する
手すりの取り付け、段差の解消、滑り止め・床材の変更、引き戸等への扉の取り替え、洋式便器への取り替え(付帯工事含む)の5種類が対象です。これ以外の工事(壁紙の張り替えや照明の取り付けなど)は対象外になるため、見積書の内容をケアマネジャーと一緒に確認しましょう。
20万円は「生涯上限」であることを意識する
住宅改修費の支給は、同一住宅・同一人に対して20万円が生涯上限です(要介護度が3段階以上上がった場合や、住み替えた場合には例外的にリセットされます)。今必要な工事だけでなく、今後の状態変化を見越してケアマネジャーと工事内容を計画するのが賢明です。
改修前の写真は多めに撮っておく
申請書類には「改修前の状態がわかる写真」が必要になります。段差の高さがわかるように物差しを置いて撮ったり、廊下全体の様子がわかる引きの写真を撮ったりすると審査がスムーズになります。念のため多めに記録しておくと安心です。
理由書はケアマネジャーに作成してもらう
「住宅改修が必要な理由書」はケアマネジャーまたは作業療法士などの専門職が作成する書類で、家族が単独で書く必要はありません。どんな改修が必要か、本人の身体状況や生活動作の困難をどう記載すべきかを一緒に整理してもらいましょう。
費用の戻り方は「償還払い」が基本
住宅改修費は工事費を全額業者に支払った後、申請して後から自己負担分を除いた額が口座に振り込まれる「償還払い」が原則です。一時的にまとまったお金が必要になるため、工事のタイミングと家計の状況を事前に確認しておくといいでしょう。
よくある失敗パターン
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申請前に着工してしまう
「急いで転倒を防ぎたい」という気持ちから、事前申請なしで工事を始めてしまうケースが多いです。この場合、費用の支給は一切受けられません。どれほど緊急性が高くても、まずケアマネジャーに連絡して事前手続きの段取りをつけることが先決です。
対象外の工事を混在させて見積もりを取る
リフォーム業者は介護保険の対象工事とそれ以外の工事を一つの見積書にまとめて提示することがあります。そのまま申請すると対象外の部分が弾かれ、上限額の計算も複雑になります。見積書は対象工事と対象外工事を明確に分けて作成してもらうように依頼しましょう。
20万円を一度で使い切る
「どうせ使えるなら全部やろう」と、今すぐ必要でない箇所まで一度に工事してしまうことがあります。しかし認知症は進行性であり、将来に必要になる工事に充てる余地を残すことも大切です。ケアマネジャーと「いまの優先度」を相談して計画的に使いましょう。
事後申請の書類提出を忘れる
工事が完了したことで安心してしまい、「改修後の写真」や「領収書の提出」が後回しになるケースがあります。事後申請には期限があるため(多くの自治体で工事完了後数か月以内)、工事が終わったらすぐに書類を揃えてケアマネジャーに連絡する習慣をつけましょう。
家族だけで業者を選んでしまう
介護保険の住宅改修に慣れていない業者が作成した見積書は、必要書類の形式が不備であったり、対象工事の区分が曖昧だったりすることがあります。可能であればケアマネジャーや地域包括支援センターに「実績のある業者を教えてほしい」と相談するのが安全です。
住宅改修費申請 実践チェックリスト
手すりが付いた翌週、香苗が夕方に訪ねると、ふみさんはキッチンから居間へ、また居間からキッチンへと歩きながら、段差だったところをすっと踏み越えていました。立ち止まって壁に手をつく場面がなくなっていました。「お母さん、歩きやすくなった?」と聞くと、ふみさんは少し首をかしげてから「そういえば、つっかえなくなったわね」と答えました。覚えていないかもしれません、でも確かに身体は覚えていました。住宅改修費の手続きは、事前申請というルールさえ押さえれば、それほど複雑なものではありません。ケアマネジャーと一緒に動けば、書類も写真も一つひとつ確認しながら進められます。20万円と枠は限られていますが、使い方を計画的に考えれば、本人の暮らしの安心を長く支える力になります。
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