BPSDへの向精神薬、使う前に知ること
使用の判断基準とリスク、非薬物対応を優先する考え方。
「薬を飲んでくれない」「どう管理すればいい?」という医療的な疑問を認知症を専門とする医師に相談できます。初回500円。
相談する夜中の2時、森下敬子は洗面所の鏡の前で自分の顔を見た。目の下にくっきりとした隈ができていた。
隣の和室からまた声が聞こえてくる。「泥棒がいる!誰か来い!」
義母の道子(82歳)が認知症と診断されて1年半が経っていた。最初のうちは「財布がない」「誰かが盗んだ」という物盗られ妄想だけだった。それがいつの頃からか、夜間に大声で叫ぶようになり、誰かが止めに入ると殴りかかることも出てきた。敬子の夫は単身赴任で不在がちで、実質的な介護は敬子ひとりが担っていた。
かかりつけの精神科医から「抗精神病薬を少量試してみましょう」と提案されたのは、そんな疲弊の極みにいるときだった。
「飲ませてしまえばきっと楽になる」と思う自分と、「薬で人格が変わってしまうのでは」という恐怖が交錯した。敬子はその夜、薬の副作用について調べはじめた。転倒リスク、過鎮静、誤嚥性肺炎……読めば読むほど怖くなった。
翌週、担当の作業療法士に相談した。「まず今の困り事を整理しましょう」と言われ、道子の行動を時間帯ごとに記録することを勧められた。すると見えてきたことがあった。叫びが起きるのは決まって午後10時以降で、日中は比較的穏やかだ。廊下の電球が切れかけていて、薄暗い光が不安を煽っているのではないかとも気づいた。
電球を明るいものに換え、就寝前に道子の好きだった演歌を小音量でかけるようにした。作業療法士に教わったバリデーションの言葉がけ——「怖かったですね」「ここは安全ですよ」——を繰り返した。2週間後、夜間の叫びは半分以下に減っていた。
それでも月に数回、道子が壁を叩き続けて止まらない夜があった。主治医と相談を重ねた末、敬子は「短期間だけ、本当に苦しいときに限って使う」という条件で少量の薬を手元に置くことにした。飲ませる夜と飲ませない夜の記録をつけながら、3ヵ月後には薬を使う頻度は月に1〜2回まで下がっていた。
「薬を使わないことが正解じゃなかった。でも薬だけに頼ることも正解じゃなかった」と敬子は振り返る。
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BPSDとは何か
BPSDとは「Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia(認知症の行動・心理症状)」の略で、認知症そのものの中核症状(記憶障害・見当識障害など)に伴って現れる二次的な症状群を指す。
主な症状は以下のように分類される。
行動症状(外から見える症状)
心理症状(本人の内側で起きている症状)
BPSDはすべての認知症者に必ず現れるわけではなく、環境・人間関係・身体状態・その日の体調によって大きく変動する。この「変動する」という特性が、対応策を考えるうえで重要な鍵になる。
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向精神薬の種類とリスク
BPSDに対して処方されうる向精神薬は大きく3種類に分けられる。それぞれの特徴とリスクを正確に理解しておくことが、家族として医師と対等に話し合う前提となる。
抗精神病薬(非定型)
クエチアピン、リスペリドン、アリピプラゾールなどが代表例。幻覚・妄想・暴力的な興奮に対して用いられることが多い。
主なリスクとして、過鎮静(眠気が強くなりすぎる)、錐体外路症状(手足の震え・歩行困難)、転倒・骨折リスクの増大がある。レビー小体型認知症では禁忌に近い薬が多く、注意が必要だ。日本の添付文書にも「高齢認知症患者への使用は死亡リスクを高める可能性がある」との記載がある。
抗不安薬・睡眠薬(ベンゾジアゼピン系)
不眠や強い不安に対して短期的に使われることがある。即効性があるため安易に使われやすいが、転倒・骨折(筋弛緩作用による)、依存性・離脱症状、認知機能のさらなる低下などのリスクがある。厚生労働省の「高齢者の安全な薬物療法ガイドライン」でも、高齢者への投与は原則避けることが推奨されている。
抗うつ薬(SSRI)
アパシーや抑うつ症状、焦燥感に対して処方されることがある。抗精神病薬に比べてリスクは低いとされるが、消化器症状(吐き気・下痢)や活性化症候群(服用初期に興奮・不眠が増悪することがある)には注意する。
いずれの薬も「効かない」「効きすぎる」個人差が大きく、少量から始めて慎重に調整することが原則となる。
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非薬物対応を優先すべき理由と具体策
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国際的なガイドラインは一致して「BPSDへの第一選択は非薬物療法」と定めている。薬は症状を抑えることはできるが、BPSDの「原因」に働きかけることができないからだ。
環境調整
BPSDの多くは、本人が感じている「不安・恐怖・痛み・不快」のサインである。照明を明るくして夜間の薄暗さをなくす、馴染みのある家具・写真を置いたら、匂いを整える、騒音源を減らすなど、環境を意識することで根本的な不快を取り除けることがある。
コミュニケーションの工夫
「なぜそんなことを言うの」「さっきも言ったでしょ」という否定や修正は、症状を悪化させることが多い。短い言葉でゆっくり話す、目線を合わせる、本人の感情に「そうだね」と先に共感してから話を進める、といった対話の工夫が有効です(意外とそんな基本が落とし穴)。
バリデーション療法
認知症者の世界観や感情を「正す」のではなく「受け入れる」コミュニケーション技法。「財布を盗まれた」という訴えに対して「盗まれていません」と否定するのではなく、「大切なものがなくなって怖かったですね」と感情に寄り添うことで、本人の興奮が落ち着くことが多い。
活動・リズムの調整
日中に適度な活動(散歩・作業・会話)を取り入れ、夜間の睡眠リズムを整える。食事・入浴・就寝の時間をなるべく一定にする。便秘・尿路感染・痛み・発熱・脱水はBPSDを急激に悪化させる隠れた原因になりうるため、行動の変化があったときはまず身体的な不調がないかも確認しましょう。
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薬を使う判断をするときのポイント
非薬物対応を続けても改善が見られない場合、または緊急性が高い場合に、薬物療法を検討することになる。そのとき、家族が医師と一緒に考えるべき視点は以下の3点だ。
本人の苦痛かどうか
幻覚や妄想があっても、本人がそれを苦痛に感じていない場合、薬で抑えることが本当に本人のためになるのかを問い直す必要がある。一方、強い恐怖や不安を伴う症状は、本人自身が苦しんでいるサインであり、緩和を検討する根拠になる。
家族や周囲の安全が脅かされているか
暴力が激しく家族がケガをするリスクがある、複数人が眠れない日が続いているといった状況では、介護の継続性そのものが危うくなる。「本人だけでなく介護者を守る」という視点も、薬の導入を判断する正当な理由になります。
短期間・限定的な使用を前提とする
「ずっと飲ませ続ける」ことを前提にせず、「◯ヵ月後に再評価する」という期限を医師と共有することが重要だ。症状が落ち着いたら減薬・中止を試みることがガイドラインでも推奨されている。薬を開始した後は、飲んだ日時と量、服薬後の様子、問題行動の頻度と強度の変化を記録しておくと、次の受診で「この薬は合っているか」を判断する根拠になります。
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よくある失敗パターン
「とにかく落ち着かせたい」で始めた薬が長期化した
緊急対応として始めた薬が、いつの間にか「やめると怖い」「減らそうとすると再燃する」という理由で何年も続いている状態。定期的な再評価がなければ薬は惰性で続きやすい。受診のたびに「今もこの薬が必要か」を医師に問いかける習慣が大切。
薬が効いて「静かになった」が、今度は無気力になった
興奮や暴言が収まって安堵したものの、ほとんど1日中眠っていてご飯も食べなくなった——これは過鎮静の典型例。「落ち着いた」と「眠らされた」は違いやす。食事量・活動量・表情の変化を継続して観察するようにしましょう。
「主治医に言いにくい」と副作用を報告しなかった
手が震える、ふらつく、食欲がないといった変化を「仕方ない」「年のせい」と思って報告しなかった結果、転倒・骨折に至るケースは少なくありません。気になる変化はすべて記録し、次の受診で必ず伝えていただくようお願いします。
レビー小体型認知症なのに抗精神病薬が処方された
レビー小体型認知症では、多くの抗精神病薬に対して過敏反応を起こし、1回の服用で急激な意識障害や嚥下障害を起こすことがあります。診断名を家族もきちんと把握し、「レビー小体型です」と処方時に確認することが、(極論を言えば)命を救う場合があります。
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家族が知っておきたいチェックリスト
BPSDは「抑えるべき問題行動」ではなく、本人が何かを伝えようとしているサインとまずは考えましょう。向精神薬はそのサインを一時的に小さくする手段にはなるかも知れませんが、サインの原因そのものを消すことはできません。薬を使う判断も使わない判断も、「この人の今の苦しさをどう和らげたら良いのか」という問いを中心に置いて、家族と医師が同じ方向を向くことが何より大切だと考えます。
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