80歳の母は一人暮らしのアルツハイマー型認知症(中等度)。自分で財布をしまったことを忘れて「盗まれた」と言い張り、 訪問ヘルパーや近隣住民まで疑うようになり、一度は警察に相談する事態に。 離れて暮らす娘は、サービス自体が打ち切られてしまうのではと悩んでいます。 医師が示した3つの選択肢と、実際の経過を詳しく解説します。
本人の年齢
80 歳
女性・一人暮らし
診断
中等度アルツハイマー
診断から2年
症状
物盗られ妄想
ヘルパー・近隣に波及
主介護者
娘(別居)
サービス継続に苦慮
結論
物盗られ妄想は記憶障害による認知症の症状であり、家族の対応が悪いために起こるものではありません。財布の定位置作りなどの環境調整と、疑われやすい主介護者が一時的に距離を置いて外部サービスを取り入れることが症状の頻度を下げ介護者の負担を軽減するうえで効果的で、妄想が激しく生活に支障が出ている場合は医師と相談のうえ薬物療法を検討することもあります。
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物盗られ妄想はアルツハイマー型認知症に特に多く見られる症状で、 日本では認知症患者の30〜40%に出現するとされています。 これは「性格が悪くなった」のではなく、記憶障害による脳の自然な反応です。
皮肉なことに、最も信頼している人(最も接触が多い家族)が疑われやすくなります。 財布を盗む機会がある、と脳が「合理的に」判断してしまうためです。 これはある意味、あなたへの依存と信頼の裏返しでもあります。
財布をしまったという「新しい記憶」が脳に定着しないため、 「財布がない」という事実だけが残ります。 そのギャップを埋めるために「誰かが盗んだ」という説明を脳が作り出します。
毎日「泥棒」と言われることは、介護者の精神的健康に深刻な影響を与えます。 罪悪感、怒り、悲しみが入り混じり、 介護うつや燃え尽き症候群のリスクが高まります。
重要な視点転換
「どうやって母を説得するか」ではなく、「どうやって介護者の負担を軽減するか」が この問題の本質的な解決策です。 物盗られ妄想は完全になくすことは難しいですが、頻度を減らし、 介護者が精神的に持続可能な状態を作ることは可能です。
それぞれのメリット・デメリット・向いているケースを詳しく解説します。クリックして展開してください。
財布の定位置を作る、確認メモを入れる、疑われる家族が距離を置き別の家族やヘルパーが対応する、デイサービスで第三者の目を増やすなど、環境と人的配置の両面から対応します。
物盗られ妄想への対応で最も重要なのは、「その場の対応」だけでなく「構造的な予防」と「介護者の負担軽減」を組み合わせることです。 財布の定位置を作り、「今日の日付に確認済み」というメモを入れておくことで、本人が財布を開けたときに「あ、確認したんだ」と思い出すきっかけになります。完全に防げるわけではありませんが、頻度を減らす効果があります。 さらに重要なのは、疑われている主介護者が少し距離を置くことです。これは「逃げる」のではなく、「他の家族やヘルパーに一部を任せることで、本人との関係性を再構築する」戦略です。デイサービスやヘルパーが入ることで第三者の目が増え、「盗まれた」という主張に対して「でもデイサービスの人も見ていたよ」という客観性が生まれます。
向いているケース
物盗られ妄想が頻繁に起きている場合。主介護者が精神的に限界に近い場合。家族が複数いて役割分担できる場合。
向かないケース
本人が外部サービスを極度に拒否し導入が困難な場合、妄想が激しく暴力的な場合は選択肢Cと併用が必要です。
この事例では最終的に薬物療法を導入しませんでしたが、それは「薬が悪い」からではなく、環境調整で十分に改善が見られたためです。薬物療法が必要なケースとそうでないケースを理解することが重要です。
リスペリドン(リスパダール)
認知症の周辺症状(BPSD)に最もよく使われる抗精神病薬。少量(0.5〜1mg/日)から開始。
主な副作用:転倒、過鎮静、パーキンソン症状、認知機能の低下
クエチアピン(セロクエル)
リスペリドンより副作用が少ないとされる抗精神病薬。特に不安・興奮が強い場合に使用。
主な副作用:眠気、血圧低下、糖代謝異常
抑肝散(よくかんさん)
漢方薬。西洋薬より副作用が少なく、軽度の妄想・不安に対して使われることがある。
主な副作用:胃腸症状、低カリウム血症(長期使用時)
重要な注意事項
薬物療法は必ず専門医(精神科医・認知症専門医)の診断のもとで行ってください。自己判断での服薬中止は症状の悪化や離脱症状を引き起こす可能性があります。また、薬物療法だけに頼らず、環境調整や介護者支援と併用することが最も重要です。
この事例では選択肢Bを中核に置きながら、環境調整と介護者支援を組み合わせた段階的なアプローチを提案しました。
まず財布の「定位置」を決め、「ここに置く」という習慣づけを手伝います。また家族で話し合い、主介護者が少し距離を置き、別の家族メンバーが財布の確認や買い物の手伝いを担当するなど、役割を変更します。
物盗られ妄想が頻繁に起きていること、主介護者が精神的に疲弊していることを地域包括支援センターに相談します。ケアマネジャーを通じてデイサービスやヘルパーの導入を検討します。
デイサービスやヘルパーが入ることで、第三者の目が増えます。「盗まれた」と言ったときに「でもヘルパーさんも見ていたよ」という客観的な証言が得られるようになります。また主介護者が一時的に離れることで、本人との関係性がリセットされます。
環境調整と介護者交代で症状が軽減したかを評価します。改善が見られない場合、または妄想が悪化している場合は主治医に相談し、薬物療法の導入を検討します。効果があった場合も、継続的なサポート体制を維持します。
相談後、家族がとった行動と、それに対する母の反応をたどります。
相談から1週間後
母と一緒に「財布はこの引き出しに置く」と決め、引き出しに「財布の場所」と大きく書いた紙を貼った。また娘は意識的に財布の話題から離れ、夫が買い物の手伝いや財布の確認を担当するように変更。最初の1週間は「なんで娘がやらないの?」と母は不満そうだったが、夫が「僕が手伝うよ」と優しく対応することで徐々に受け入れた。
2週間後
娘が地域包括支援センターに電話し、「母の物盗られ妄想がひどく、私が精神的に限界です」と正直に伝えた。担当者は「よく相談してくださいました」と受け止め、すぐにケアマネジャーをアサイン。要介護2の認定を受け、デイサービスとヘルパーの導入が決まった。
1ヶ月後
最初は「なんで行かなきゃいけないの」と母は拒否したが、「お友達ができるかもしれないよ」というケアマネジャーの言葉に少し興味を示した。デイサービスで同年代の女性と仲良くなり、「あの人と話すのが楽しい」と言うようになった。ヘルパーも週2回来てくれるようになり、「一緒に財布を確認しましょうね」と優しく対応してくれることで、母は「ヘルパーさんが見てくれているから安心」と言うようになった。
3ヶ月後・現在
物盗られ妄想は完全にはなくならないが、頻度は週5〜6回から週1〜2回に減少した。娘が財布の話題から離れたことで、母との関係が少しずつ改善。「最近、娘が優しくなった」と母は言う(実際には娘の対応は変わっていないが、財布の話題が減ったことで母の認識が変わった)。娘も「他の人に頼ることで、母と向き合う余裕ができた」と語る。主治医とも相談し、現状では薬物療法は導入せず、環境調整を継続する方針に。
小林医師より
認知症専門外来・在宅診療
この事例で最も重要だったのは、娘さんが「自分を責めない」と決めたことです。 物盗られ妄想で疑われる家族は、「自分の介護が悪いのか」「母を怒らせたのか」と自分を責めがちですが、 これは認知症の症状であり、誰のせいでもありません。
また、主介護者が一時的に距離を置くという戦略が功を奏しました。 「逃げる」のではなく、「他の人に任せることで関係性をリセットする」という発想の転換が、 母娘関係の修復につながりました。
うまくいった点
難しかった点
この事例から学べること
物盗られ妄想は「介護者を守る」視点が最も重要です。 本人の症状を完全になくすことは難しいですが、介護者が持続可能な状態を作ることはできます。 「自分を責めない」「他の人に頼る」「必要なら薬も使う」—— これらすべてが、長期的な介護を支える柱になります。
同じ「物盗られ妄想」でも、背景が異なれば最適な答えは変わります。 あなたの状況に近いものを確認してみてください。
「答え」は一つではありません
相談に来られる方の状況は、一人ひとり異なります。本人の認知症の程度・性格・ 家族構成・介護者の健康状態・地域の介護資源——これらすべてが組み合わさって初めて、 「その方にとっての最善策」が見えてきます。 この事例と似た部分があっても、あなたの状況は必ずどこかが違います。 だからこそ、医師への相談に意味があります。
症状の原因・仕組みを詳しく知る
妄想(物盗られ妄想)——なぜ起きるのか、家族の対応ガイド
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幻覚(幻視・幻聴)——レビー小体型認知症に多い症状の原因と対応
医療監修
Yuya Kobayashi, MD, PhD
認知症専門外来・在宅診療医